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朝鮮日報

河原乞食の由来 芸能人差別

穢多や非人を統率する頭は、代々「弾左衛門」を名乗りました。


 江戸の弾左衛門は浅草に大きな屋敷を構え、「浅草弾左衛門」を名乗り、関東の穢多・非人を束ねてきました。

 弾左衛門による支配の根拠となっているのは、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝より下された認可状を元にしたもので、そこには芸人などの支配権も明記されていたようです。

 ですから歌舞伎役者なども初めは弾左衛門の支配下にありましたが、頼朝公の書状は鎌倉時代に書かれたもので、当時歌舞伎という芸能ははまだ存在していなかった。

だから弾左衛門による支配は不当であるとして、初代市川團十郎をはじめとする歌舞伎役者たちが、奉行所に訴えを起こし、これが認められ、歌舞伎役者は晴れて非人身分から解放されたそうです。
 しかし非人ではなくなったといっても、役者芸人であることには変わりなく、扱いそのものは変わることはなかったようです。

 歌舞伎役者たちは役者業のほかに、小間物屋などの商店を構えました。町人としての正業はあくまで商店主で、それが役者も兼ねているというかたちを作ったのでしょう。この商店の屋号が、そのまま彼ら歌舞伎役者の屋号となったんです。
 「成田屋」「成駒屋」「播磨屋」「沢潟屋」等々の屋号は、いわば役者差別の名残のようなもの、といえるかもしれません。

 歌舞伎役者は幕府より常設の小屋を設ける許可をもらっていました。しかし歌舞伎以外の芸人たちが小屋掛けをして芸を披露する場合、人の土地に勝手に小屋掛けするわけにはいかないので、誰の土地でもない河原に小屋を掛けることになります。

 河原というのは葬送の場所であり、遺体を棄てる場所でもあり、つまりは「不浄」な所とされていました。そのような場所に小屋を掛け、寝泊りするような者たちは不浄な者たちだとされていました。

 芸人とは芸を見せてお金を「恵んで」もらう乞食であり、河原などに住む不浄の者たち、「河原乞食」であるというのが、 役者をはじめ、芸人一般の蔑称である「河原乞食」の由来です。

 芸人差別の名残は今でも劇場に残っています。例えば芸人たちが劇場にはいるときは、楽屋口から必ず入らねばならず、正面の入り口から入ってはいけないんです。
歌舞伎などの伝統芸能の方たち程、この決まりを厳しく守っています。

 つまりこれは、正面玄関はお客様が入る入口であり、不浄な芸人風情は楽屋口=裏口からこっそり入る、決してお客様と同じ入り口から入ってはいけない、というわけです。
 自分たち芸人は所詮、不浄の輩でございます、という態度を示すことで、余計なトラブルを避ける意図もあったのでしょうが、なんとも切ないはなしです。

 ところで、穢多・非人などといわれますが、厳密には穢多と非人は違います。

 穢多とは皮革製品製造業などの「死穢」に直接関わることを生業とした人々のことで、罪人の遺体処理や道端に転がっている動物の死骸の処理など、死の穢れに直接携わることから、彼ら自身も穢れているとされ、忌避されました。

これに対し非人とは、要するに乞食です。正業を持たずに人から金や食料を恵んでもらう者達。 芸というものは、往来の人々の関心をより強く惹いて、なるべく多く恵んでもらうために行うものとされ、だから芸能人は一般に乞食、物乞いと同じだとされ、非人とされたわけです。

 非人の世界には、元武士であったり、町人からドロップアウトした人々などもいて、社会のシステムからはぐれ、はじき出されてしまった人々の落ち行く先でもありました。
そこには当然、犯罪者なども逃げ込んでいたことでしょうし、それ故にヤクザなどの裏社会とも繋がり易かったともいえます。

 強い者たちへの反発心と、弱い者たちへの同情心。いわば「任侠道」にも似た精神が芸能社会に育まれていった背景がここにあるのではないでしょうか。

関東では浅草弾左衛門が穢多・非人全般を束ねていました。浅草が芸人の町とされたのも、浅草弾左衛門からきているのでしょう。この浅草弾左衛門の下で、主に非人層を束ねる役目の者が代々「車善七」を名乗っていました。

「車」と云えば、「車寅次郎」。 浅草の劇場出身の役者で、渥美清さんの『フーテンの寅』さんです。 寅さんの職業が「テキヤ」というのもなにかあるのでしょうね。